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安部龍太郎著「等伯」を読んでさらに「松林図屏風」に魅せられる

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東京国立博物館

 

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毎年お正月に東京国立博物館でみる「松林図屏風」

東京上野の東京国立博物館で、毎年1月の前半に、水墨画の最高傑作といわれる長谷川等伯(とうはく)筆「国宝 松林図屏風」展示があります。

いつもすごい人だかりなので、皆さんの頭の間からそっと鑑賞することになってしまうのですが・・。

 

それでもこの屏風絵に魅かれて、毎年ここに通っています。

眺めていると、なぜか不思議と心が落ち着く作品だからでしょうか。

 

そもそも、

  • 誰のために作成されたのか。
  • そしてどこに飾られたものだったのか。

が不明な屏風絵なのです。

さらには、

  • なにかの作品の下絵なのではないか。
  • 屏風の右隻と左隻を、もともとは反対に飾るのが正解なのではないか。
  • 絵は等伯の真筆。でもここに押印してある等伯の落款は偽物。どうしてこんなことになったのか。

などなど、いろいろ言われています。

いまだ現状では「謎のまま」なのですが、それでもこの屏風絵についての「背景について」知りたくなり、

安部龍太郎著

「等伯」(上)(下)

を読んでみました。

感想

1.等伯の中央でのデビューは遅かった

長谷川又四郎信春(のぶはる)(のちの「等伯(とうはく)」。ややこしいので以下「等伯」の名前で統一します)は、まだ幼いころ、今の石川県七尾の奥村家から長谷川家に養子に入りました。

そこで染物屋の仕事をしながら、絵仏師をしています。

絵仏師は、お寺におさめる仏画を描く仕事です。

やがて等伯の描く絵は、ここでも徐々に評判となっていきます。

 

でも、狩野永徳の「二十四孝図(こうず)屏風」をみたときに、

ああ、私は今まで何をしてきたのだ

と衝撃を受け、このまま田舎絵師で終わりたくないと、

京をめざすことを決意します。

このとき等伯33歳。

妻子もいます。

人生50年といわれる時代だったことを考えれば、かなり遅いスタートでした。

 

2.等伯を知るには狩野派や狩野永徳を知ること

等伯も最初は狩野派に弟子入りします。

すぐにやめてしまうのですが・・。

 

狩野派というのは、朝廷や時の権力者に重用される「御用絵師」で、当時300人近い弟子がいる「職人集団」です。

この時点で約150年の伝統があります。

 

大寺院やお城の御殿といった巨大な建築物の障壁画を描くには、高度の技術を持った職人が大勢必要ですし、全体の仕上がりを統制する必要もあります。

 

また注文を受けた何百枚というふすま絵を描くときなどに、必要な岩絵の具や膠(にかわ)、胡粉(ごふん 貝殻を砕いてつくった白色絵具)などの材料の必要な量を計算し、それを確実に調達するルートを持っていなければなりません。

もちろん、それらを扱う技術もあわせてです。

だから、「絵を描く」ということは、こういったことも含んでの「絵を描く」だったのですね。

今まで美術館や博物館で、すごいなあ、と鑑賞していた時には、そこまで思いが及びませんでした。

 

・・本を読んで、ちょっと考えてみたのですが、これを建築に例えると、例えばスカイツリーを建設しようとするときに依頼する「○○組」や「△△建設」が「狩野派」ですね。

これに対して等伯率いる「長谷川派」は、「町の工務店」のようなもの、とでもいえば良いでしょうか。

狩野派が圧倒的な存在であることも、等伯の無謀さも(?)わかってきました。

 

狩野永徳は、その狩野派の4代目の総帥で、御曹司でありながら天才的な才能を持った人です。

 

本書は等伯と永徳のふたりの天才絵師の対比をみせてくれています。

わたしが思う「永徳」は、ひとことで言うと、既に完成している様式美・伝統の技というものを何より大切にする絵師です。

一方「等伯」は、絵のこととなると、愚直なまでに、描こうとする対象の本質に迫ろうと突き進んでいく絵師です。

 

3.歴史上の出来事との関わり

本書は、等伯と永徳が、いやおうなく巻き込まれていった「安土桃山時代」という歴史的な背景もきちんと描いてくれています。

「歴史好きな方」にも、「歴史のおさらい」にも良いかもしれません。

たとえば、

  • 有名無実化していた足利将軍家から、政権が、信長、そして秀吉やがて家康へと移っていく様子。
  • イエズス会
  • 南蛮貿易
  • 日蓮宗を弾圧するために行われた安土宗論
  • 比叡山延暦寺の焼き打ち
  • 信長の安土城造営
  • スペインがポルトガルを併合したことの日本への影響
  • 本能寺の変(個人的にわたしはこのテーマが大好きです)
  • 後陽成天皇の聚楽第への行幸
  • 秀吉の朝鮮出兵
  • 石田三成と千利休

などなどです。

 

4.千利休や近衛前久などの「より政権の中枢に近い人物」からの「引き立て」

いくら等伯が絵の天才だからといって、実力だけでは頭角をあらわしていくことは出来ないと思います。

現代のわたしたちと同じように、「引き立ててくれる人」と出会わなければ・・。

特にわたしはこのふたりからの「引き立て」が大きかったように思いました。

①千利休

利休はずっとお茶の道を究めようとしていました。

そして等伯は絵の道を。

互いに相通じるものがおそらくあったのだと思いました。

②近衛前久(このえ さきひさ)

摂政や関白を出す家を「摂関家」といいます。

代々藤原北家が担ってきましたが、鎌倉時代に摂関家が近衛、九条、鷹司、一条、二条の五家に分かれます。

なのでこの五摂家から摂政や関白が交代で選ばれるのが慣例になったのだそうです。

 

近衛家は五摂家の筆頭で、氏長者(うじのちょうじゃ その氏族を統率する方のことです)を歴任してきた公家社会最高の家柄です。

そして前久は前(さき)の関白。

 

このような事情もあり、秀吉も関白に就任するときには、前久の「猶子(ゆうし)」になる、という離れ業によってそれが実現したのだそうです。

「猶子」とは、名目上の息子のことです。

こういうのは、やはりちゃんと手順を踏むものなのですね。

だから秀吉にも一目置かれる「前久の存在」は大きかったことでしょう。

 

既に狩野永徳という人が存在しているにもかかわらず、特にこのふたりから「取り立ててもらえる何か」をきっと等伯が持ち合わせていたのでしょう。

本書を読んで、わたしは彼の「絵に対しての無垢なこころ」なのかもしれない、という印象を持ちました。

 

5.松林図屏風

いろいろなことがあって、等伯はこの絵を描くのです。

この「静かなる絵」を描くに至った経緯を、安部龍太郎さんは見事に書き切ったと思います。

 

本書のクライマックスでは、

「わしは今まで、何をしてきたのであろうな」

という言葉をつぶやく人がいます。

ああこれ、最初に等伯が言っていた言葉とおんなじです。

「松林図屏風」に至る道のりが長かっただけに、心にせまってくる言葉でした。

 

本書を読み終えた今、わたしは実物の「松林図屏風」に再び会える日が待ち遠しくなりました。

 

本書目次

上巻

  • 第一章 京へ
  • 第二章 焦熱の道
  • 第三章 盟約の絵
  • 第四章 比翼の絆
  • 第五章 遠い故郷
  • 第六章 対決

下巻

  • 第六章 対決(承前)
  • 第七章 大徳寺山門
  • 第八章 永徳死す
  • 第九章 利休と鶴松
  • 第十章 「松林図」

安部龍太郎(あべ りゅうたろう)さんはこんな方です(本書より一部抜粋)

1955年福岡県生まれ。久留米高専卒。

90年「血の日本史」でデビュー。2005年「天馬、翔ける」で中山義秀文学賞を受賞。

著作は「関ケ原連判状」「信長燃ゆ」など。

 

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