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山本兼一著「花鳥の夢」  御用絵師はつらいよ

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もうひとりの主人公

先日、安部龍太郎さん渾身の作「等伯」を読みました。

その経緯はこちらになります。

 

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さて、読んでみると「長谷川等伯」という稀有な才能を持った主人公以外に、どうにもこうにも、もっと知りたくなった人物がいます。

等伯のライバルであった「狩野永徳」その人です。

 

そもそもは、名もなき田舎の絵仏師であった「長谷川等伯」。

この等伯が徐々に中央で才覚をあらわしていくにつれ、予期せず追われる立場となったのが「狩野永徳」です。

永徳は朝廷や時の権力者の御用絵師である狩野派の4代目の総帥です。

 

永徳が気になったわたしは、

山本兼一著

「花鳥の夢」

を読んでみました。

感想

1.山本兼一さんの美術に関しての深い知識と表現力

山本さんはご自身が美術を専攻していらしたためなのか、当時の絵師が絵を描くときの「手順」の説明が丁寧でした。

また、永徳や等伯らによって描かれた「絵」を「言葉に変換する腕力」が半端なかったです。

 

たとえば、永徳が水墨画を描くときに、大量の墨が必要になっても、信頼する弟子1人にのみに命じて、同じ墨を同じ硯で磨(す)らせているシーンがあります。

これは墨を磨り終えたときの濃さが人によって違うので、「墨の調子を変えないため」、という説明があります。

水墨画は、墨の濃淡に微妙なグラデーションをつけることが肝です。

たとえば背景にあるものは淡い色の墨を。

手前にある花や樹木など、際立たせたいものは濃く。

今欲しい墨の濃さを確実に用意するために「1人」だけに磨らせる。

なるほどなあ、と思った場面でした。

②「狩野本家の財産」と言われている

「粉本」(ふんぽん)

というものを、知りました。

コトバンクによると

・(昔、胡粉を用いて下書きを描き、のち墨を施したことから)東洋画で、下書きのこと。

・後日の研究や制作の参考とするために模写した絵画。

・絵・文章などの手本とするもの。

をいいます。

本書では、「粉本」について、こうあります。

狩野家の始祖である曾祖父正信の時代から、この家には、膨大な量の粉本が保管されている。

さまざまな種類の鳥ばかり描いた長い画巻もあれば、樹木や花ばかりを描き写した画帳もある。一葉ずつまくりのままの肖像画の下絵もあれば、唐の山水画、仙人や賢人らの人物画をそのまま描き写した摸本もある。

数千点におよぶそんな粉本の蓄積があればこそ、狩野家は、さまざまな画題の注文に応じて、絵が仕上げられる。牡丹の咲かない季節でも牡丹の絵が描けるし、行くことのできない洞庭湖でも、見たことのない色彩豊かな異国の鳥の絵でも、手本となる粉本があればこそ、それをもとにして、新しい絵が描けるのである。

2.狩野派の総帥をするって大変です

御用絵師の集団であること

こんなシーンがありました。

等伯と彼の弟子たちは、「絵を楽しそうに」描くのです。

彼らの作品は、確かに狩野派のように「絵は端正や品格が第一」というものではないかもしれません。

 

でも長谷川派の工房では、師匠と弟子が一緒に仕事をしているときでも、互いに冗談を飛ばしあったり、笑いがあります。作品はその中で生み出されたものなのです。

 

もちろん絵師として切磋琢磨しあうのですが、人数も狩野派に比べグッと少なく、アットホームな空気を感じることができました。

 

その様子を、ふとしたことで垣間見た永徳は

「楽しく描いてもいいのか」

と驚きます。

永徳にとって絵を描くことは楽しくなかったのでしょうか。

 

永徳の率いる狩野派の工房では、総帥の統制のもとに大勢の弟子が仕事を役割分担し、集団で絵を仕上げていきます。

これは彼らが御用絵師であるために、請け負っている仕事の量が尋常ではないことから、仕方がないことなのでしょう。

そこでは作品の発注主の「ここに、こんな絵を描いてほしい」といった意向や、納期との闘いもあり、ミスは許されないという「緊張感」に包まれていた様子がうかがえます。

ミスは即ち、御用絵師の座を「他者に奪われる」ということになりかねないからです。

 

ここでひとつのエピソードを山本さんは紹介しています。

信長が築城した安土城。

ここの大城郭のすべての座敷に絵を描け、との信長の命令が永徳にありました。

その時、永徳は弟に家督を譲ってから弟子と共に安土城に向かったのだそうです。

これは、もし信長の不興をこうむったときに、狩野家本家に害が及ばないようにするための、永徳の決意だったのでしょう。

等伯にあって永徳にないもの

永徳は、祖父元信(もとのぶ)から、幼い日に絵の才能を見出され、手ほどきをうけます。家祖正信や祖父元信からの

よい絵からは、よい音が聞こえる。

そして

絵は絵師がこころの力で描くのだ

という教えのもとに、メキメキ頭角をあらわしていきます。

きっと自分でも、子供の頃は絵が上手くなっていくことが、純粋に楽しかったと思います。

 

ただ、長ずるにつれ永徳は、御用絵師の地位を守らなければならない重責を担うようになります。

永徳は「端正であること、品格のあること」を第一としつつ、「さすが狩野派」と言われるような「天下一の絵」を描き続けることを目指し、総帥として孤軍奮闘します。

 

そんな永徳なのですが、やがて折に触れて周りの人からこんな言葉を言われます。

父の松栄からは

おまえは、観ている者のこころが遊ぶ場所をなくしてしまおうというのか。

千利休からは

見せよう、見せよう、という気持ちの強い絵はどうにも好みに合いませぬ。絵師がおのれの伎倆を鼻にかけているようで、いかにも浅薄な絵に見えてしまいます。

秀吉からは

絵は、もっと楽しんでゆるやかに描くがよい。長谷川の絵は、観ていて気持ちがゆるやかに楽しくなる。

と。

山本さんは、等伯にあって永徳にないものを、

「絵の中の『余白』とか『遊び』のような、絵をみる者の居場所」

と考えていらしたのかもしれません。

とても深いなあ、と思ったことをひとつ

永徳が自分の描いた下絵を妻にみせてその感想を求めた後に、こういうのです。

玄人である自分はよいと思っても、絵を見るのは素人である。素人がよいと思わなければ、この絵は失敗だ。

 

本書「花鳥の夢」を読んだことで、狩野派とか長谷川派とかそんなものに関係なく、「絵師に対する尊敬の気持ち」がわたしの中で、沸々とわいてきました。

 

・当時チューブ入りの絵の具というものなんて当然なく、自分で理想の色味や墨の濃淡をその都度作らなければならないものでした。

しかもそれは保存ができないのです。

 

・襖絵や屏風絵、扇子に絵を描くときは、それぞれの用途に最適な紙というものを考え、その紙を職人に用意してもらうところから始めます。

 

・金箔を絵に施す時は、金箔押しを扱うことが出来る弟子が必要になりますし、もし人手が足りなければ新しく人を頼まなければなりません。

 

・そして御用絵師の場合、絵の発注をする人は、おもに朝廷や時の権力者です。

絶対に

「お気に召してもらえるもの」を、

「期日厳守で納品しないといけない」のですよ(*_*;

 

本書目次

第一章 緋連雀

第二章 洛中洛外

第三章 燕

第四章 雲と龍

第五章 弟子の絵

第六章 安土城

第七章 黄金の宇治橋

第八章 唐獅子

第九章 花鳥の夢

主な参考文献

 

山本兼一(やまもと・けんいち)さんはこんな方です(本書より一部抜粋)

1956年京都市生まれ。同志社大学文学部美学及び芸術学専攻卒業。

99年「弾正の鷹」で小説NON短編時代小説賞佳作。

2004年「火天の城」で第11回松本清張賞を受賞。

09年「利休にたずねよ」で第140回直木賞受賞。

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