
出典 歌川広重 東海道五拾三次 蒲原 夜之雪(かんばら よるのゆき) (アダチ版復刻)
広重の「東海道五拾三次」シリーズの中では、こちらが一番好きかもしれないです☆
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きっかけ
昔から歌川広重の描く風景画が好きで、特に彼の出世作「東海道五拾三次」の浮世絵は飽きずによく眺めていました。
ひとつの風景画をじっくり観て、その絵の中に切り取られているさまざまなドラマを、あれこれと想像してみるのが好きなんだと思います。
一方、好きな小説家のお一人である藤沢周平さん(※)が、広重のことについて書いた短編の作品があるというのを知り、早速次の2作品を読んでみました。
(※)藤沢周平(ふじさわ しゅうへい)さんは、山形県鶴岡市出身の小説家。江戸時代を舞台に、庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品を多く残しました(ウィキペディアより一部抜粋)。
藤沢周平著「旅の誘い(いざない)」(「花のあと」より)
広重は下級武士である安藤家に生まれます。
十三歳のときに母と父を相次いで亡くし、安藤家を継ぐことになります。
具体的には、父の職である「定火消同心(じょうびけしどうしん)」の職を継いだのです。
「定火消」とは、旗本を筆頭とした江戸城や市中の消防組織のことをいいます。
なので「定火消同心」は、御家人で消防士をしている人、ということになります。
知らなかったのですが、広重はもともと武士の出なのですね。
十三歳で家督を継いで、定火消同心となった彼は、彼が家族を養っていかねばならないという厳しい現実に直面したことでしょう。
当時と今では平均寿命が違いますけれども、それでも十三歳ですと今の中学1年生に相当します。
彼は心に寂しさを抱えたままで、半ば強制的に大人にならざるを得なかったのかもしれません。
一方広重は絵を描くのが好きで、十五歳のときに歌川豊広に弟子入りします。
定火消同心の仕事がない平穏なときには、絵が売れれば家計の足しにもなります。
さて、当時、浮世絵と言えば、なんといっても武者絵、役者絵、美人絵です。
広重は絵を描くのも好きで、才能もあります。
ですが、あまたいる浮世絵師の中で、「これを描いたら彼の右に出る者はいない」というものが見つからないのです。
そんな中、広重十九歳の時、祖父の三番目の妻が男の子を生んだことにより、いずれ家督をその子、仲次郎に譲ることになりました。
実は広重の亡くなった父は安藤家の入り婿だったのです。
広重は安藤家の血筋ではありますが、直系ではありません。
なので仲次郎が八歳のときに家督を直系の仲次郎に戻したのですが、こういったことは当時の武家の習慣だったのだそうです。
広重は仲次郎の後見を務めますが、仲次郎が十七歳になるのを待って定火消同心の職を譲り、隠居します。
家督も譲り、職も譲り、そして相変わらず絵がパッとしない・・・。
そこへ、保永堂という小さな地本草紙問屋を営んでいる竹内孫八が、八代洲河岸(やよすがし 今の東京都千代田区丸の内の明治生命館の立つあたりだそうです)にある定火消組屋敷内の広重の居宅を訪れます(といっても、今や広重は居候の身なのですけれど)。
そこで保永堂さんからこう言われるのです。
以前あなたの描いた「東都名所」や「東都名所拾景」。
あたしの見るところ、先生の本領はこのあたりにあります。
そして東都名所の中の一枚の絵をみせながら、
あなたがほんとうは風景描きだと白状している絵です。
と言うのです。
広重は、でも風景画といえば、北斎先生の「富嶽三十六景」があるではありませんか、と困惑します。
でも保永堂さんはこう続けるのです。
あなたの風景には誇張がない。気張っておりません。恐らくそこにある風景を、そのまま写そうとなさったと、あたしはみます
と。
やがて北斎の強力なライバルとなる広重なのですが、このときはその片鱗さえも見せていませんでした。
ただ、保永堂さんのみが、広重本人も気が付いていない彼の描く風景画の不思議な魅力について、気が付いてくれていました。
そしてそのことを広重に告げてくれた、転機となる訪問だったのでした。
保永堂さんの広重の元への訪問は、この作品の中では全部で3回描写されています。
そしてその訪問は全部「違う意味合い」を持つ訪問でした。
短い作品の中であっても、藤沢さんはみごとに書き分けています。
さらに・・・。
藤沢周平さんのこの「旅の誘い」は、確かに「広重」を書いているのですが、同時に、「北斎の圧倒的存在」をずっしりと感じさせる作品にもなっています。
藤沢周平著「溟(くら)い海」(「暗殺の年輪」より)
実は、藤沢周平さんには、もう一方の主人公、葛飾北斎について書かれた短編の作品があるのです。
藤沢さんの作家デビュー作で、オール讀物新人賞を受賞した作品です。
読んでみて、新人にしてこれなのかしら、と、あまりの完成度にびっくりしました。
こちらも、先程の「旅の誘い」と同様に、この「溟い海」で「葛飾北斎」を間違いなく書いているのですが、同時に、「歌川広重の存在」が感じられる作品になっていると思います。
既に大絵師となっている北斎は、昨今ちまたで評判となっている若い広重の「東海道五拾三次」のうわさを、あちらこちらで耳にします。
ある時は版元たちから。
あるいは自分の弟子たちから。
気になった北斎は、その絵をみた人たちに、その広重の絵がどんなものだったか、と、尋ねます。
でもみな口々に言うのです。
思ったより平凡な感じ。
しかし、だからつまらないとは一概に言えない。
とか、
風景には違いないのだが・・・先生のおっしゃる風景と、多分少し違うと思いますよ
とか。
こんなことを言われては、北斎ならずとも気になりますよね。
自分は既に絵師として名をはせているけれど、評判の絵師歌川広重の描く風景画がどうしても気になってしまう。
否定しても否定し切れない嫉妬の想い。
自分の方が優れているという想い。
そんなものが北斎の胸の中にべったりと沈殿していきます。
やがて満を持して見た広重の東海道五拾三次。
その一見平凡に見える風景画を、北斎が目にした時に、彼はどう思ったのか。
ここでの「北斎の見立て」が、つまり「藤沢さんの見立て」なのでしょう。
「深い」、と思いました。
本を読み終えてから、少し調べたのですが、広重の「絵本手引草」という冊子の中で、彼は自らの絵をこう評しています。
「写真(しょううつし)をなし、そこに筆意(ひつい)を加えたもの」が「自らの絵」だ、と。
つまり、見たままを写実的に描いたものは絵ではない。
筆意を加えたものが絵である、ということなのだそうです。
たとえば「東海道五拾三次」蒲原 夜之雪の作品。
本当はこちらの場所は降雪量の少ない温暖な地域で、このように深々と雪は降り積もらないのだそうですね。
でも見る方の心に残る絵を描くことこそが、写実を超えた絵師の工夫なんだよ、ということだったのではないでしょうか。
おまけ
藤沢さんの短編2作品を読み終えてから、先日「HOKUSAIー ぜんぶ、北斎のしわざでした。」展に行ってきました。
会場に展示してあった「富嶽百景」。

そしてこの冊子の奥付にある「長生きをして、ますます絵を極めてやる」、といった「決意表明」。


この冊子が世に出た頃は、ちょうど広重と絵師として「しのぎを削って」いたんだろうなあ、と思うと、それまで北斎に対し抱いていた自信満々のイメージとはまた違う一面、「世間に対するハッタリ感のような側面」も感じられるような気がしてきました。
それから、北斎は、身内に素行の悪い人間がいて、北斎自身も随分苦労したようです。
彼の晩年、80代に入って、体調もあまり良くないことから「邪気を払う」、という意味で毎日描いていた獅子の絵の肉筆画です。

日によって体調もまちまちだったと思うのですが、さすがのデッサン力だと思いました。
「日新除魔図(にっしん じょまず)」というのですが、いろんなバージョンで描いていますし、ちゃんと日付も入っています。
ちょっとおちゃめバージョン?


この日々の日課は、「邪気を払う」という意味と、「毎日の絵のトレーニング」も兼ねていたのだろうと思いました。
最後に
浮世絵は庶民が購入するものだったので、「そば一杯のお値段」で当時購入できたらしいです。
けれど、広重と北斎という「(特に風景の)絵に対するアプローチの全くちがうふたりの絵師」を取りあげることによって、そば一杯の値段のものだったかもしれないけれど、背後で見えない火花を散らす絵師の姿に深く触れることが出来たような気がしています。
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