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大河ドラマを観る前に
2026年、今年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」を観るかどうか、実は正直迷っていました。
主人公は豊臣秀長。
ですがその兄、秀吉とその政権がどういう結末を迎えるのかが、わかっていたからです。
その秀長については、以前わたしが千利休についての小説を読んだときに初めてその存在と名前を知った程度でした。
ところで、秀吉と秀長は兄弟であることは間違いないのですが、肖像画をみると、兄弟なのに受ける印象が大分違うように思えませんか?
二人が随分と出世してから描かれた肖像画で受ける印象は、
- 秀吉は、小柄で痩せていて、日に焼けていて、そして眼光が鋭い感じがします。
- 対して、秀長は、頬がわりとふっくらしていて、どっしりとした感じ。温厚そうに見えます。
こちらも調べてみると、
- 同母・同父から生まれた兄弟という説
- 同母・異父兄弟説
があるのだそうですね。
どちらなのか、現状ではまだ決着がついていないようです。
いずれにしても、いままで織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった、時代の覇者の陰に隠れていた秀吉の弟、秀長の研究が活発になったのは、大河ドラマがあるということもあって、ここ最近のことのようです。
でもどうして「今」なのでしょう。
興味がむくむくとわいたところで、
このように秀長にスポットが当たる以前の1985年に出版された、小説
堺屋太一著
「豊臣秀長 ある補佐役の生涯」(上下巻でなく全一冊のもの) PHP文庫
を読んでみました。

なお、秀吉・秀長は、木下→羽柴→豊臣と時代により姓が変わっていくのですが、この記事では便宜上「豊臣」姓で統一しています。
堺屋太一(さかいや たいち)さんとは
平成31年2月に亡くなった作家・堺屋太一さん。
近未来を予測した小説で知られ、戦後ヘビーブーム世代を描いたベストセラー、「団塊の世代」は時代を象徴する流行語にもなった。
堺屋さんは昭和10年大阪市生まれ。
東京大学卒業後、現在の経済産業省へ入省。
万国博覧会開催のために奔走し昭和45年、大阪万博開催を実現する。
官僚時代に作家デビューしてベストセラーを連発、退官後は作家、経済評論家として活躍した。
独自の視点で多くの歴史小説も手がけ「峠の群像」「秀吉」は大河ドラマの原作にもなった。
鋭い先見性と明確なビジョンで時代をけん引し、未来に警鐘を鳴らし続けた83年の生涯だった。(NHKアーカイブスより一部引用)
感想
あくまで本書は史実をベースにした「小説」です。
でも、堺屋さんは、
- 経済
- 組織が継続し続けるためにはどうしたらよいのか
といったこともずっとテーマとしてお持ちのようでした。
なので、わたしもそんなことも意識しつつ本書を読んでみました。
1.「この人」という言葉に込められている尊敬の念
堺屋さんは、なぜ秀長にスポットをあてることになったのでしょうか。
それはわたしの推測でしかないのですが、豊臣政権が何故成立できたのか、また何故短命に終わったのか、を調べていく過程で、
いままで秀吉の存在に隠れていた
- 「弟の秀長という大きな存在」があったこと
そしてこの人が
- 「とんでもなく有能な方」であったこと
なのに
- 「自分からはその功績を残そうとしない方」であったこと
そして
- この人の喪失が豊臣政権にとっていかに大きかったのかということ
こういったことに気が付かれて、かなり驚かれたのではないでしょうか。
だから、堺屋さんは、「ねえ、この人今までは知名度はあまりなかったけれど、実はこんなにすごい人だったんだよ」ということを、わたしたちに紹介したくて「この人」という言葉をたびたび文中で使ってらっしゃるように思えてなりませんでした。
2.秀長のナンバー2としてのすごさ、それは自身は有能なのにあくまでも秀吉の補佐役に徹したことである
秀吉の出世は、それはもうほぼ垂直上昇で、これは世界史的にも「奇跡的」ともいえることでしょう。
考えてみると、農民の出から天下人にまで上り詰めるなんて、普通はあり得ないことですよね。
本書を読んでいて秀吉と秀長の印象は、ずばり
- 秀吉=自分の勢力範囲をどんどん「開拓していく人」
- 秀長=兄から「ここは開拓したので、わしは次に行く。あとのことは頼んだよ」と「丸投げされた人」
です(+_+)
・例えば戦をする場合には何より軍資金が必要ですが、その資金調達をする。
・また兵站(へいたん)を整える。
兵站は戦う兵士たちに食料(兵糧)や武器、弾薬を届け、戦闘力を維持する後方支援のことです。
この補給線が途切れるとどんなに強い軍でも敗北するので、実は勝敗の要だったりします。
・戦場で形勢不利な場合、殿軍(しんがり)をつとめる。
殿軍は、撤退・退却する軍の最後尾で、追いかけてくる敵を防ぎ止める命がけの役割を持つ部隊です。味方の主力や大将を無事に逃すため、犠牲を覚悟で敵を食い止める、最も危険で重要な役割でした。
・また、のちに本能寺の変を経て色々あった後に、京都大徳寺での信長の葬儀(ご遺体はありません)が行われた際の、警備を取り仕切る。
・・・これらは全て秀長が兄から任された(丸投げされた)ことの例です。
さて、秀吉の出世とともに、豊臣の組織が大きくなるにつれ、こんな「あるある」なことが起きてくるのですが、秀長はどう対処していたのでしょうか。
①「武功派と文治派官僚の対立」問題
豊臣家は、もともとは農民の出。
地縁や血縁のない豊臣家では、「自前で優秀な直属の家臣となる人をスカウト」してこなければならなかったのです。
信長から秀吉に与えられた応援部隊=与力という人材もいたのですが、いわば会社でいうところの「本店から支店に送り込まれてきている人」です。
なので、その人はあくまで基本は信長に忠誠をつくす人です。
そのため支店では使いにくい面もあったことでしょう。
だからあくまで直属の部下を支店で調達し、育てていかねばなりません。
やがて秀吉の出世とともに、巨大化した軍事・政治組織の中では、内部に武功派と文治派の対立が生まれます。
例えば加藤清正、福島正則ら武功派は戦に長けていて、この秀吉の領土拡大に貢献しているのは自分たちだ、という自負があります。
けれど、大きくなった組織をうまく運営していく術を必ずしも持っていません。
これに対して、例えば藤堂高虎、増田長盛、石田三成といった、計算に長じていたため治世の才能のある文治派の人材も、大きくなった組織を回していくには、必要不可欠な存在となっていきます。
ただ、当時年が若く、年長の武功派を抑えることができません。
堺屋さんは、このあたりのことを中小企業が大企業に発展するときに生じる「古参の番頭と新人りの学卒組の対立」と例えています。
わかりやすいですね。
この内部の対立について秀長は、
- 自らも武功を立てること(ただし、あくまでこれも兄秀吉の功績とする)
- 激務の合間を縫って、用兵の術・習字・算術・帳付の法などを学ぶなど技術の習得にも努めます
このようにして家臣団に、自分は秀吉の弟だから、といって単に言葉で指示するというより、実績に基づく自分の背中を見せることによって、どちらにも抑えのきく人となり、両者の人間関係の調整に力をつくしています。
ところで、この、習字で思い出したのですが、兄の秀吉が、直筆で書いた手紙を以前博物館でみたことがあります。
秀吉が戦場にいるときに、家族に宛てた手紙でした。
自分が戦で留守をしている間の家族の健康や無事を案じて、一生懸命書いているのですが、平仮名が多く、漢字もかなり当て字が多かったように記憶しています。
気持ちがこもった素朴な手紙、という印象を受けました。
一方、弟も兄と同様、もともとは農民で、二十歳過ぎまで文盲でした。しかし弟はやがて努力によって達筆で正確な文字を書きしるすようになっていったのだそうです。
それから、当時秀長が信長の安土城を建てる手伝いをした時など築城の時には、お金の管理、建築資材や米の調達などのため、当時商業の発達していた近江で用いられていた「仕訳帳付」という「簿記」があったのですが、これを採用したそうです。
元帳の他に、金銭、木材、米など品目別に入庫・出庫をそれぞれ別々の帳面に付けているのですが、互いに照合できるようになっていたのだそうですよ。
これは、今日の「複式簿記」とは違うのですが、経理を仕事にしているわたしは、とても感心してしまったポイントでした。
持ち歩く帳面は多くなりますが、その時の資材などの残高がわかるだけでなく、不正もつかみやすくなったことでしょう。
②秀吉への「取次」や「とりなし」を請け負う
秀長は、新たに加わった外様の大名や商人たちからの秀吉への「取次」や、秀吉の逆鱗に触れた家臣たちが秀吉への「とりなし」をお願いされる役目も一手に背負っていました。
島津との闘いに苦戦中の大友宗麟(おおとも そうりん)が、援助を秀吉に求めようと大坂城を訪れた際のはなしです。
大坂城で秀長に迎えられたとき、人を安心させるような人柄とともに、秀長が宗麟の手をとって「何事も何事もこのようであるから心安くなされ。うちうちのことは利休に、おおやけのことはこの小一郎(秀長)に申されよ(注)」と言われたそうです。
この言葉は、そのことに感激した宗麟が、実際に書き記した言葉なのだそうです。
(注)意味は、個人的・内密なことは千利休に相談せよ、表向きの政治・外交のことはこの秀長に相談せよ、です。
ところでその、千利休も実は秀長の存命中は、何度も秀長のとりなしをうけ、命拾いしたことがあったのだそうです。
本書目次
- はじめに
- 小さな幸せ
- 生涯の決心
- 危ない道
- 梢は高く、根は深く
- 試練、そして出世への道
- 美濃の夢
- 敵中に功あり
- 竹中半兵衛
- 「天下布武」走る
- 上洛
- 深慮の貧乏くじ
- 敗走の功
- 試練のとき
- 強きに流れる
- 補佐役の気働き
- 文治派の台頭
- 待つことの勇気
- 捨てる者の心
- 村重謀叛
- 補佐役の心得
- 不吉の彗星
- 変事
- 天王山
- 天下への坂
- 最後の苦闘
- あとがき
大河ドラマで期待すること
それはもう、秀吉の丸投げっぷりと、請け負った(請け負わされた?)秀長がそれをどう切り抜けていくのか、が観たいです(*^-^*)
とても印象に残った堺屋さんのことばを引用します。
この人は、自らの功績を伝える記録も残そうとしなかったし、おもしろおかしいエピソードも残さなかった。恋の話もなければ子供もなかった。すべてを兄・秀吉の築いたきらびやかな政権に埋め込んで走ったのである。
最後に、歴史の「もしも」
この人は、
- 対立のある所では調整役となり
- 秀吉が一人では手が回らないことを、もう一人の秀吉の分身となって働いた人
だったと思います。
そんな人でしたから、ここで言っても仕方がないことですが、どうしても、もしこの人が秀吉より長生きしていたら・・・と、考えてしまいました。
- 秀吉・秀長の甥、秀次切腹事件は起きただろうか(注)
- 朝鮮出兵はどうなっただろうか
- このあとの徳川政権の誕生は、あったのだろうか、それともなかったのだろうか?(注)
(注)秀次切腹事件(1595年)は、豊臣秀吉が後継者だった甥の秀次に謀叛の疑いをかけ、高野山で切腹させた事件です。秀吉に実子の秀頼が生まれたことで邪魔になった秀次が追放され、妻や子供まで惨殺されました。
この事件は、豊臣政権が内側から崩壊する大きなきっかけとなり、秀吉の晩年における汚点とも言われています。
(注)関ヶ原の戦い(1600年)は、秀吉の死後に起きた石田三成サイド(西軍)と徳川家康サイド(東軍)との天下分け目の戦いです。
最近は豊臣家臣団の中の文治派と武功派との社内闘争のような争いに、各大名がそれぞれの思惑に従い味方した、との見方もあります。
ナンバー2だったけれど、ナンバー1は目指さなかった。
もし兄より自分が長く生きたとしても、きっとその後継者に対して、兄にしたのと同じようにこの人は「補佐役」に徹したのだろう、とそんな風に思います。
地味で、功績を残すことをむしろ自ら拒んだような人。
でも丹念に振り返ってみると、組織を活かしていくような働きをし続けたこの人から、今でも学ぶことがたくさんありそうです。
あっ、知らないうちにわたしも秀長さんのことを「この人」と呼んでいました(*^-^*)
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