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夏は暑くて気分的にダレてしまいがちです。
そこで大体この暑い季節に気持ちの仕切り直し的に読み始めるのが、
森下典子さん著「日日是好日(にちにちこれこうじつ) 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ」です。
読みながら「なるほどそうかも」と頷ける文章に出会えた時は、本にペタッと付箋を貼っているのですが、ここ数年この本を「気持ちがダレているかな」という時に読み返していく中で付箋の数もだんだんと増えていきました。
そもそも森下さんは
大学生の時に、ひょんなことからお茶の手習いを始めました。
意味が良くわからないのに繰り返し繰り返し行われるお茶のお作法。
手順をメモしたり、なぜそのように動くのかという理由を尋ねたりする森下さんに、
「頭で考えるのではなく、体で覚えなさい」と師匠の武田先生に言われます。
それから25年。
その間には、就職の際のあせりを経験し、失恋、お父様の突然の他界、いろんなことが起きます。
それでもお茶を続けていくうちに段々とお茶を通して気が付かされたことが、丁寧に順を追って綴られています。
それが15のしあわせとして「15の章」になっています。
ただ森下さんのここでいう「しあわせ」は、
必ずしも単純に「happy」であるという意味ではありません。
たとえば第11章「別れは必ずやってくること」という章は、お父様との突然の別れについてのご経験とその後お感じになったことが書かれています。
その中にこんな文章があります。
会いたいと思ったら、会わなければいけない。好きな人がいたら、好きだと言わなければいけない。花が咲いたら、祝おう。恋をしたら溺れよう。嬉しかったら、分かち合おう。
幸せな時は、その幸せを抱きしめて、百パーセントかみしめる。それがたぶん、人間にできる、あらんかぎりのことなのだ。
だから、だいじな人に会えたら、共に食べ、共に生き、だんらんをかみしめる。
一期一会とは、そういうことなんだ・・。(p196より)
家族であれ、恋人であれ、友人であれ、はたまたペットであれ、自分にとって大切だと思える対象とずっと一緒にいられるわけではないということに気が付き、そのことを知っているからこそ、一緒にいられる限られたときを味わいかみしめることができるのではないのか。
それが森下さんのおっしゃる「しあわせ」のひとつなのかもしれないですね。
きっかけはそれぞれでしょうが
長くひとつのものを続けていらっしゃる方を私は尊敬しますし、一方とても羨ましく思えます。
それが仕事であっても、趣味であっても、何か小さなことであっても。
この本の「まえがき」の中にはこうあります。
世の中には、「すぐわかるもの」と、「すぐにはわからないもの」の二種類がある。
すぐわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。けれど、すぐにわからないものは、フェリーニの『道』のように、何度か行ったり来たりするうちに、後になって少しずつじわじわとわかりだし、「別もの」に変わっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体のほんの断片にすぎなかったことに気づく。
「お茶」って、そういうものなのだ。(p5より)
柳家小三治師匠
この本の最後に、私の大好きな今は亡き落語家の柳家小三治師匠が「解説」という名のラブレターをお書きになっていらっしゃいます。
私ごとですみませんが、私は自分の独演会で一年か二年に一度、朗読の日にしてしまうことがあります。本来の噺(はなし)はせず予告なしに突然朗読だけの会にしていまうのです。理由は急にそうしたくなるというだけの事でお客様には誠に申しわけないんでありますが・・・。そこで森下典子さんの『日日是好日』を読ませていただいたことがありました。(p248より)
師匠~っ!(*_*;
でも師匠と、もしも叶うなら握手したい気持ちで一杯です。
あ~、森下さんのお茶についての本を書いていたら、本にも書かれているお茶と相性の良い季節の和菓子が食べたくなっちゃいました☆