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清水義範著「源内万華鏡」 自由か安定か フリーランスはつらいよ

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チューリップのようなお花が咲くけれど「ユリノキ」 英名は「チューリップツリー」 和名は「半纏木(ハンテンボク)」

 

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2025年の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」を観ています。

登場人物の中のおひとり、安田顕(やすだ けん)さんが、魅力たっぷりに演じる平賀源内さんにも大いに注目してドラマを観ていました。

 

今まで源内さんといえば、

「土用の丑の日というキャッチコピーを考えた方」、

(よくわからないけれど)「エレキテルの人」

ぐらいの、ぼんやりとした知識しかありませんでした。

 

でもドラマを通し、マルチな才能を持ち、早口でポンポンとまくし立てるきっぷのいい源内さんに、いつの間にか心をつかまれていました。

(高松藩の出身ですが、江戸に出てきたら、お国訛りがすっかり取れちゃったみたいです。江戸弁にはすぐ順応したのですね)

 

ドラマではそんな源内さんとのお別れにショックを受けたのですが、なんとか気を取り直して、

『べらぼう』では進行上どうしても収まりきらなかった平賀源内その人のことを深堀りしようと、

 

清水義範(しみず よしのり)著

「源内万華鏡」

 

を読んでみました。

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感想

1.もっと広い世界で自分を試したいのさ

源内さんは高松藩の下級武士の出です。

(現代でいうところの香川県さぬき市志度に源内さんの旧邸があります)。

幼いころからやはり「賢い子」として知られていました。

 

彼は13歳で「本草学(ほんぞうがく)」を学ぶようになります。

 

「本草学」というのは、中国古来からの学問で、薬用に重点を置いて、自然界に存在するあらゆるものを研究対象としていたそうです。

具体的には植物や動物、鉱物などのすべての自然物が研究対象で、今の学問でいうと「博物学」のようなもの、といわれています。

 

しかも当時は「蘭学」が長崎の出島にやってくるオランダ人により少しずつもたらされてきていて、西洋の博物学も入ってきていたので、本草学者の研究の対象範囲はずっと範囲が広いものだったのだそうです(ライオンの絵とかも研究対象だったそうですよ)。

 

当時の高松藩主は名君の誉れ高い、松平頼恭(よりたか)公。

薬草や菜園に深い関心を持ち、和漢の鳥獣草木虫魚金石貝類を集めるのが好きな「博物学マニア」。

源内さんと同じ「本草学」を愛好しています。

 

藩主の目にとまった源内さんが、もしもここでの出世のみを志していたとしたら、のちの「マルチな平賀源内」は存在していなかったかもしれませんね。

 

でも源内さんは長崎への遊学を通して、当時のオランダを中心とした広い世界を学びます。

 

やがて源内さんはこのまま高松藩に残らず、江戸に出ることを決意するのです。

 

決意した源内さんの行動は素早いです。

藩に病気という理由で辞職願いを提出し、受理されます。

もちろん病気というのは嘘なのですが。

 

そして家督を妹の夫に譲り、自分は隠居し、浪人となるのです。

なお、妹の夫は平賀の家に婿養子に入ってもらっています。

 

こうしてみると、源内さんの、「好奇心の赴くままに広い世界に飛び出したかったのさ」、という抑えがたい心の声が聞こえてくるようです。

 

ここで、さすがに「ぬかりがないなあ」、と思ったことは、江戸に出る前の準備として、次のようなことを源内さんがしっかり行ったことです。

(実は表向きには「体調不良」で家督を譲り隠居したことにしていたので、すぐに江戸に向かうことが出来なかったため、その時間を「有効活用」したのです)。

  • 地域にとらわれず、「これは」、と思う人に手紙を書いてあらかじめ人脈を築いています。
  • そして手紙には自分は本草学を学び、長崎遊学を通してどんなことを学んだかといった自己宣伝することもゆめゆめ忘れませんでした。

2.とはいっても厳しかったのではないか?「仕官御構(しかんおかまい)」の件

源内さんは実は2度ほど高松藩に辞職願い(のようなもの)を出しているのです。

 

1度目はさきほどの、初めて長崎に遊学したあとに江戸へ活躍の場をシフトしようとするとき。

実は、その後、江戸での源内さんの活躍を耳にした藩主松平頼恭が、やっぱり自分のもとでの仕事をいろいろ任せたいと思って源内さんを一度国許に戻ってこさせているのです。

源内さんは優秀だったので、手許に置いていおきたかったのでしょうね。

 

国許に帰って「藩主に命じられた仕事」に忙殺されてしまい、「自分の学びたいこと」に割く時間がつくれないといったことから、結局源内さんは2回目の辞職願いを出すことになるのですが・・。

 

今回は医学に専念したいので、そのため御用がおろそかになってはいけないのでお暇を頂きたい、という願いでした。

大分経ってから、高松藩からようやく出された回答が、

永のお暇を許すが、他へ仕官の儀は御構いあそばされ候」。

 

「お構いなし」、というのは、その件に関してはお咎めなどないので、好きにしてもいいよ、ということですね。

反対に「御構い」は、その件に関しては認めないよ、ということになります。

 

つまり「殿の特別のおぼしめしで、永のお暇は許しますよ。でも他藩などに仕官することは認めないよ。」というものでした。

 

これは、自由を手に入れ、大きな藩や幕府などに仕官して出世する道が(おそらく松平頼恭が御存命中は)全く閉ざされてしまったということです。

生き方がガラリと変わるほど厳しい回答だったのではないかな、とわたしには思えました。

 

源内さんの知識や行動力を聞いて、たとえば大きな藩や、はたまた幕府(田沼意次とか)からスカウトされても、正社員としては仕官することはできないのですから・・。

 

結局、源内さんは今でいうところの「マルチタレント」として「フリーランス」で生きていこう、という決断をします。

なお、この「マルチタレント」について、清水さんは「学問芸人」と仰っています。

つまり、

「学問が優れていることで、有名になり、人気を得て、大衆の尊敬を集めて生きていこう」

とする人、と説明されておられます。

でも、今でいう「タレントさん」もそうですが、絶えず人々の注目をあび、人を飽きさせないようにし続けるのは、いくら才能に恵まれていたとしても至難の業ですよね。

このことがわたしは特に気になりました。

 

結局2回目の辞職願いが、結果として「大きな人生の選択になってしまった」のではないでしょうか。

 

この「仕官御構い」を受けた源内さんを、どう考えるのかは、人により受け取り方がおそらく違うと思います。

ちなみに清水さんは、一時的にはショックを受けたことだろうけれども、いやいや、ここから源内さんの人生は「万華鏡のように輝いたのだよ」説なのです(*^-^*)。

 

3.外国産ではなく、めざせ国産

以下は源内さんのマルチな業績例です。

  • 発明家
  • コピーライター
  • 小説家
  • 脚本家
  • イラストレーター
  • 鉱山師
  • 俳諧師
  • 薬剤師
  • 陶芸デザイナー
  • 毛織物プランナー
  • イベントプランナー
  • 起業家

こんな風に、源内さんは、びっくりするくらい多方面において才能を発揮した人でした。

 

素朴な疑問としてわたしは

「結局、源内さんは何をしたかったんだろうか?何を目指していたんだろうか」

と、ドラマを観ていても、ずっと思っていました。

 

実は本書を含め彼に関する他の本を読んでも、関連番組をみても、彼がマルチ過ぎるためなのか、正直今もってつかみ切れていません。

巨人過ぎる・・。」

 

でもひとつだけわかったことがあります。

それは、「外国産ではなく、もっと国産化を」が大きな目標のひとつであり、そこに向けて本草学の研究を活かして「自分も貢献したい」と思っていたのではないか、ということです。

 

たとえば、長崎でみた「量程器」(万歩計)や「磁針器」(方位磁石のように正確に北の方角を指し示すもの)などは、もちろん外国産です。

こういったものを外国から購入しようとすると、売り手の言い値のままで買わされることになります。

日本ではそれを作れなかったわけですから。

 

でも外国語の通訳者などにも大いに協力してもらい、その製品の原理を洋書などの書物から学ぶところから始めて、国産で作れないだろうか。

材料も、いままで中国など外国に頼ってきたけれど、国内に眠る資源や、まだ知られていない資源を探し出し、それを使って国産化出来ないものだろうか。

 

そんな願いもあり、今でいうところの「博覧会」を源内は多くの協力者と共に催します。

 

日本全国から鉱石、珍しい薬草、希少生物などを一堂に集め、これを「身分の上下に関係なく、藩の垣根も超えて、すべての愛好家に」見てもらう機会を作ったのです。

 

博覧会を成功させるための協力者を募るために、全国に配布する「チラシ」も作りました。

 

博覧会のあとには「物類品隲 (ぶつるいひんしつ)」という、今でいうところの「カタログ」も作りました。

カタログを見ると、日本全体のどこで何を産するのかを知ることが出来るので、外国から高い対価を払って輸入しなくても国産のものでまかなえます。

それを使えば商品・製品も安価で販売することが出来るじゃないか、といった新たな商売にもつながるというわけなのです。

 

こんなことを目指していた源内さん。

日本に産業を興し、経済力を高めていくことを目指していた、田沼意次(たぬま おきつぐ)とはやはり気持ちが通じるところがあったことでしょう。

 

なお、この博覧会を催すために、出品するモノを一堂に集めようとするときに考えたのが、

  • 全国各所に設けられた「取次所」
  • 大都市に設けられた「中継所」、
  • それに「着払いシステム」でした。

最寄りの「取次所」に届ければ届けたいモノが「中継所」を経由して「江戸」まで「着払い」で届けられる。

だからモノを全国から沢山集めることが出来たのです。

 

源内さん冴えてる!

 

4.もしも

本草学を研究し続けるには、お金がかかります。

  • 国内外の実用書の購入費用(特に洋書)
  • 全国各地をフィールドワークするので旅費
  • 研究成果の出版代など

その費用の捻出のためでしょうか。

源内さんは、

鉱山の開拓事業」という当時はまさしく「ほぼ運に左右される事業」にも手を出し、結果失敗します。

 

また、偽物のエレキテルが世に出まわるようになります。

 

こんなこともあり、彼の今までの輝かしい功績や信用に傷がついてしまったり、人気に陰りが出始める、という出来事に、晩年になってみまわれました。

 

その当時源内さんは50代。

どんなに才能があっても、若いころとは心身の状態も異なっていることでしょう。

 

そしてフリーランスゆえの安定しない経済面

「本草学を研究し続け、人々の生活に役立てる」、という夢をかなえるためには、わたしたちが想像する以上に資金面では「自転車操業」だったのかもしれません。

 

本書を読んで、もし、源内さんが大きな藩や幕府に仕官することが出来、その安定した基盤のもとで、本草学の研究を深めていくことが出来ていたら、ということを考えてしまいました。

才能」と、「その才能を活かす場」も同じくらいに大事なのだと。

 

今はただ、広い世界で一途に自分の思うがままに生き抜いた源内さんに、心からの大きな拍手を送りたいです。

 

清水義範さんはこんな方です(本書より抜粋)

1947年 愛知県名古屋市生まれ。愛知教育大学国語科卒業。

1981年 「昭和御前試合」で文壇デビュー後、1986年に発表した「蕎麦ときしめん」で独自のパスティーシュ文学を確立する。(注)

(注) Wikipediaより抜粋

フランス語の美術用語で「作風の模倣」を意味するもの。

音楽、美術、文学などにおいて、先行する作品の要素を模倣したり、寄せ集め、混成すること。

 

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