
葛飾応為 三曲合奏図 (ボストン美術館蔵)が本の表紙を飾っています
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最初は北斎のことが知りたくて、画集をみたり、北斎にまつわる小説を読んでいたら、いつの間にか北斎の末娘、応為(おうい)について知りたくなってしまいました。
わたしが女性で、わたしも父にとってはひとりの娘だからでしょうか。
娘の本名は、葛飾 栄(えい) といい、彼女も浮世絵師で、父のもとで絵を描いていました。
応為というのは画号(雅号の一種。本名以外の別名で、特に画家では画号とも言う)になります。
キャサリン・ゴヴィエ著「北斎と応為」
本書は、最近読んだ本の中で、応為その人の生涯を知る手がかりとして、わたしの中では一番しっくりきた本です。
著者のキャサリン・ゴヴィエさんは、カナダの作家です。
北斎の娘のことを知るにつけ、どうしてもこの方の生涯を「小説」という形で蘇らせたい、とのことで、数年にわたり研究したうえで、筆をとったとのことです。
キャサリン・ゴヴィエさんがカナダの方であるにもかかわらず、よくぞここまで調べて書いてくださった、という気持ちで一杯です。
物語とともに、巻末に掲載されている「著者あとがき 葛飾応為に魅せられて」という「長い長い推しについてのラブレター」は、どれだけ彼女が応為について粘り強く調べたかが伝わってきて、圧巻です。
同時に浮世絵の美術的な鑑定の難しさも、応為をめぐる最近の研究動向もわかりやすく書かれています。
そのため本書の物語を読んでから、さらなる理解を深めるためにはもちろんのこと、応為に関しての他の小説などを読むときにも、非常に参考になると思います。
内容紹介
浮世絵師・北斎の娘、応為こと葛飾栄の謎に包まれた生涯を、著者の緻密な調査と想像力により描いた歴史小説。
当時の江戸庶民の暮らしぶり、吉原の様子、浮世絵師の世界、幕末へと向かう歴史の流れなどもうかがい知ることができます。
富嶽百景の跋文(ばつぶん あとがき}
北斎75歳頃完成させた有名な富嶽百景の跋文には、北斎の言葉として次のようにあります。
七十を迎えるまでに描いたもので、特筆に値するようなものはない。
七十三年目にしてようやく、鳥や獣や虫や魚の本質、そして草木の生命の特質をつかめたように思う。
八十の年までにはさらなる躍進を遂げていることだろう。
九十のときには物事の真髄のさらに奥深くまで踏み込んでいることだろう。
百になれば真の神業を得、
百十では私の描く点と線のすべてが自ずと生命を得ることだろう
成し遂げるために、何としてもしぶとく長生きしてやろうという執念。
でも、現実には北斎は2回、60代の頃と晩年の80代の頃に中風を患っています。
中風とは、今でいうところの脳卒中の発作の後遺症として、主に半身不随となる状態のことをいうのだそうです。
うまく歩行が出来なかったり、言葉が出てこなかったり。
人として生きていく上でも、絵師としてもそれはもう大変だったはずです。
北斎は漢方薬や日々の絵を描くことなどで治癒させたそうで、その執念はすさまじいものを感じます(完全に治癒したのかは、もちろん不明です)。
そのような状況の中で、北斎の工房では、大量の仕事を捌くためには今まで以上に娘 応為のサポートが不可欠だったはずです。
本を読んでいて、はっとさせられたシーンがあります。
葛飾北斎を陰で支えた娘
それは、応為と、シーボルト(医者であり、日本に近代的な医学を伝えます。日本人の娘と結婚し娘が生まれますが、日本地図など当時の機密情報を国外に持ち出そうとしたため、スパイ容疑がかけられ、国外追放となりました。ずっと後に再来日しますが・・。そのシーボルトさんです。長い説明になりました。)が、会話するシーンです。
シーボルトは、日本滞在時に、遠く海を越えて徐々に名をはせつつあった北斎に絵を注文しようとします。
丁度そのときに北斎に代わり対応したのが応為です。
その対面中に、応為は、シーボルトに次のような質問をして、シーボルトを困惑させます。
「シェイクスピアに娘はいたのですか?読み書きはどうだったのでしょうか?」と。
シーボルトはシェイクスピアの生きていた時代は、200年も前のことであり、まして娘についての記録自体があったのかも不明なので、最初は彼女の質問の意図がわからずに困惑します。
応為は、こう聞きたかったのです。
つまり、たくさんの名だたる作品を世に生み出したシェイクスピアには、必ず「娘という助け手」がいたはずだと。
父のために努めを果たすのは、服従や義務ではなくて、そうしなければ作品が出来上がらないからだ。
それで生計を立て、娘はそうすることの価値を信じていた。
家業として工房を営んでいたので、それを手伝うのは当然。
弟子もたくさんいることはいるけれど、男性の弟子というものは、腕を上げるほど、やがて独立していくもの。
それはどうしても「北斎」というビッグネームに呑みこまれてしまうから。
だから結局は、その当時独立するということが困難だった女性の弟子や北斎の娘たちが、北斎と共に工房を切り盛りしていくようにならざるを得ないのです。
しかし一方、応為の心の声は続きます。
しかし娘は-もしいなかったのなら、私自身のことを言うことになるが-この娘自身も類いまれな才能に恵まれていたのだ。
だが娘には集中して作業する暇などほとんどなかった。北斎を手伝えば手伝うほど、父は偉大になり、娘は落ちていく。父が偉大になればなるほど娘は老いていく。それこそが真の問題だった。
いったいいつ、娘の時代が来るというのだろう。
こんな相反するベクトルをもつ想いが、同時に応為の中にきっと同居していたんだろうなあ、と応為の複雑な胸の内側を鮮やかに切り取って見せてもらったように思えました。
自署・落款問題
本書を読んでいて、なるほどと思ったこと。
それは、「工房とは共同作業するところである」ということです。
基本的に一人の人間が、一枚の絵をじっくりと仕上げる、というスタイルでは大量の仕事を賄いきれないもの。
そこで勘所はもちろん北斎が抑えるものの、工房全体でそれぞれの工人がその能力に応じて得意な作業を分担し、複数の仕事を同時進行で仕上げていくしかなかったのではないでしょうか。
ただし、出来上がった作品の署名と落款は、あくまでその工房の主である北斎ものとなります(注 北斎は画号も数十回変え、印章も変わりました。ですがこの辺は鑑定のおはなしになりますので、割愛します)。
一方、応為は、
- 細密な絵を描くこと
- 北斎もかなわないと褒めるほど美人画が得意であったこと
- どうやったらこんな色が作れるのだろうと人に思わせるくらい、色彩について研究熱心であったこと
がわかっています。
そして、応為自身が受注し、彼女の作品であると現在わかっているものは10数点と、とても少ないのです。
それは、彼女が特に老齢になっても人気の衰えなかった北斎の仕事を滞らせることなく共に担い続けたこと。
このようなことから彼女が描いたものも、結局は「北斎」作ということになっているのではないか、という指摘が昨今美術専門家の方からもなされているのです。
本書で背景を知って想いをはせる
最近、応為のことが本書のように小説になったり、漫画化されたり、映画化されたり、美術館でも注目されたりしています。
ちょうどここまでこの記事を書いていたら、2025.9.6放送のテレビ東京の「新美の巨人たち」という番組で、絵の中に応為の隠し落款のある「吉原格子先之図(よしわらこうしさきのず)」を取り上げていましたので、録画をして見てみました。

太田記念美術館所蔵 葛飾応為「吉原格子先之図」 より
応為さんと、もし直接お話することとができたら、こんな風にお伝えたいです。
あなたの絵はすばらしいですよ。西洋画に対しても、とても研究熱心だったのですね。
あなたの辿ってきた道のりが、ようやく少しずつですが日の目を見るようになってきましたよ。随分時間がかかってしまいましたけれども、良かったですね。
わたしたちも嬉しいです。
これからきっとあなたのファンがもっともっと増えると思いますよ。
それから、特に晩年のお父さんの介護、よくやり遂げられましたね。しかも工房も切り盛りしながら、本当に大変でしたでしょう?
よくやり遂げられました。ほんとにお疲れさまでした。そして素敵な絵を描いてくれてありがとう。

北斎の弟子 露木為一(つゆき いいつ)筆「北斎仮宅之図」国立国会図書館所蔵
84歳ころの北斎と、娘の応為が描かれています。
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